二反長音蔵(にたんちょう おとぞう)

 我が国で芥子栽培と品種改良を行い日本の阿片王と言われています。二反長半(にたんおさ なかば・児童文学者)は息子、同時期に阿片販売で活躍した星一(ほし はじめ・星新一の父親)がいます。
 日本でのケシ栽培は台湾領有後、台湾島民の吸飲阿片の購入のため多額国費が流出する事をうれいた二反長音蔵が後藤新平に建白し、芥子栽培を認めさせたことに始まります。音蔵は阿片により利益を得ようとしたのではなく麦より儲かる米の裏作作物として、また外貨流出を防ぐため家財を傾けてまで芥子栽培の普及に務めました。
 日本だけでなく朝鮮・満州を含むアジア芥子栽培の中心地となった自宅近辺の大阪府茨木市福井は5月になると真っ白な芥子花が咲き誇り、雪が降り積もったかのようだったそうです。
 星製薬がアルカロイド研究に着手したのは大正3年、台湾政情が不安定な時期、後藤新平の阿片漸禁政策(新中毒者発生を予防する傍ら、17万の阿片常用者に対して総督府管理下で阿片の販売と購入を認める)を打ち出し、折から第一次世界大戦も始まり阿片輸入に支障しはじめた時、星はモルヒネ抽出に成功して台湾の阿片専売局から粗製モルヒネの払い下げを一手に引き受けることになる。
 音蔵は芥子栽培の第一人者で、満州事変以降内地だけでなく朝鮮総督府や満州国から招聘されるが、当時音蔵は56才、蒙古連合自治政府に招かれた時には70才を越えていたといいます。日本は朝鮮で芥子栽培を奨励、満州では芥子栽培を管理し阿片を専売制にします。日本は中国大陸に100万の軍隊を8年間派遣しましたが、費用は中国農民に芥子を栽培させ、それを満州国の阿片中毒者や他占領地に売りつけた利益を利用したのです。労働力と消費者・生産と販売を管理して日本から金品を持ってくることなく、満州国植民地財政の基幹部分を形成させたのです。
 阿片吸煙習慣のない朝鮮では、阿片をモルヒネに加工し朝鮮人に売りつけました。
 これらの戦略は国際社会から批判を浴び(イギリスはインド阿片の中国輸出を止めた)、日本は国際阿片条約を破棄、中国などに阿片製品を売り込み始めたのです。中国(日本が領事裁判権を持つ)に売り込んだヘロインで、1000万人の中国人が死んだと言われています。
 朝鮮は毎年数万人のモルヒネ中毒者が発生、一部は日本に渡ってきました。東京の朝鮮人4万人のうちモルヒネ中毒者が3000人という調査もあります。朝鮮から数百万人が本土に渡ってきたのですから、この数値も小さかったのではと考えています。

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